古里の風景
参宮線 田丸駅
歴史[編集]
1893年(明治26年)12月31日 - 参宮鉄道が津 - 相可(現・多気) - 宮川間で開業した際に設置。
1907年(明治40年)10月1日 - 国有化。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。参宮線の所属となる。
1912年(大正元年)頃 - 現在の駅舎(木造平屋)が完成。
1963(昭和39年4月から昭和42年3月)まで私も通学で利用、当時は蒸気機関車が走っていた。
1983年(昭和58年) 1月 - 跨線橋を設置、同年1月19日より供用開始。
12月21日 - 荷物の取扱いを廃止。1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道の駅となる。
2012年(平成24年)10月1日 - 業務委託を解消し、完全無人化。
平成26年1月3日 |
円通山石仏庵と三十三体石仏
原バス停右の道は熊野街道の古道で、小丘の中央に縦4尺・横4間の観音堂があって三十三体の石仏がある。
その左に金毘羅社、右に秋葉堂があり、古道を隔てて円通山石仏庵がある。
観音堂の石仏は西国三十三所の観音石像で、台石中央に第何番観世音、左右に為先祖代々菩提、施主誰々と刻まれ
、9基は紀州熊野、2基は和州吉野郡の村、その他江戸、尾州知多郡、北伊勢上野や伊勢山田と地元の人々が奉納している。
観音堂は文化5年(1808)に寄進されたといわれている。
石仏庵は文政8年(1825)3月、三河国篠塚村謂信寺¢R和尚の隠居寺として草創されたと伝えられる尼寺であった。
7間に4間の寺堂は明治23年(1890)庄出の善哉寺を移築、再建されたが、昭和23年(1948)廃寺となり、本尊道引観音や秘仏延命子安地蔵は光徳寺に預けられた。
境内に文化2年(1805)5月巡礼道引観音碑が建てられた。高さ165センチメートル、幅29センチメートル『江戸講中』と刻まれ、
くまのぢを道びきたまへかんぜおん きよきふじやうの人をえらばずと御詠歌が彫られている。
江戸時代は観音信仰が盛んで、参宮を済ませた道者は田丸で旅装を調え、西国巡礼となって杖を引き、石仏庵の道引観音を拝し、三十三体仏に額ずいて巡礼の無事を祈り、
無事巡礼を果たした人は報謝のため、観音堂の石柵に石柱を寄進したという。
石仏庵境内に彩色のあとが残る81センチメートルの行者石像と、文化8年(1811)と刻まれた三面六臂の庚申像を祀る堂があり、
堂前の手洗石に弘化4年(1847)五月吉日と刻まれている。(『玉城町支・上巻』より)
円通山石仏庵と三十三体石仏 |
和宗 國束寺
歴 史
國束寺は、聖徳太子が皇大神宮の神勅により、伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念なされたことに始まります。
その後、寺の名前こそ「国を束ねる寺」であることからか、時の権力者、聖武天皇や嵯峨天皇、またこの地域の国司であった北畠氏による篤いご信仰により、
山内に六院百三十二坊を有するにまで発展し、弘法大師空海がこの地を訪れた際にはこの山を『胎蔵界曼荼羅の山』と称嘆なされたと伝えられております。
平安〜鎌倉〜室町期には密教の一大修行道場として発展した国束寺でありましたが、戦国時代、織田の伊勢攻めにより山内の堂塔伽藍は全て灰燼とされてしまいます。
(国束寺公式HPより抜粋)
和宗 國束寺 | 伊勢巡礼第9番。和宗「湧福智山国束寺」四天王寺の末寺です。
本堂は旧国束寺の荒神堂(嘉永6年-1849建立)を移築したもの。(ただし、屋根の形は変えたとのこと) ご本尊は十一面観音立像(90cm)。 |
平成25年8月 現在の境内 〒516-2105 三重県度会郡度会町平生1481
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田丸城周辺
田丸城周辺散策 | ||
村山龍平記念館 | 玉城町役場 | |
村山龍平記念館開館30周年記念祝賀会 | 田丸城跡から玉城中学校 | 平成25年4月4日 |
秋
古里の春
4月桜咲く頃 田舎に帰るのは何年ぶりか、
桜まつり開催 | アスピア玉城の桜も随分大きくなりました | 周辺には100本もの桜が植えられています |
アスピア玉城 5月 | 和宗 圓鏡寺 | |
宝塚古墳(三重県)
船形埴輪出土位置 | 船形埴輪 (松阪市・宝塚1号墳) | 宝塚1号墳と造り出 造り出し遺構 祭祀場を形成 |
伊勢の王墓宝塚古墳 | この解説文は 松坂市在住 郷土史家 谷口正則先生から提供いただきました。 |
2009/1/3 栃ヶ池(多気町成川)
柿畑 ↓ | 2008・10・13 |
コスモスと松の苗木 ↑ |
皇大神宮摂社 | 朽羅神社 |
田んぼの中に 鎮座する |
多気町と境を接する、東原の田の中にある。皇大神宮儀式帳には、久麻良比(クマラヒ)神社とあり、延喜大神宮式には朽羅社、同神名式には朽羅神社と見えている。中略 社頭には天保3年の常夜灯がたっている。(伊勢神宮125社ウオーキングパンフより) | ||
地元では 宮田の森 呼ばれる |
山(国束山)と池 | ||
道と田園 | ||
(2009年04月02日 読売新聞)より
三重・松阪
商魂の芸術 木綿と牛
阪神なんば線が先月開通して、近鉄と相互乗り入れし、神戸方面からも伊勢路が近くなった。自宅近くの阪神・魚崎駅から電車に乗った。伊勢路の交通の要衝、三重県松阪市には、木綿と牛をブランド化した商人の才覚が息づいていた。
(山畑洋二)
松阪商人の邸宅が残る一角。豪華とは言えないが、堅実な暮らしぶりがうかがえる=追野浩一郎撮影 近鉄松阪駅の西約500メートル。お伊勢参りの旧参道近くに白壁と格子窓の商家が残る。築300年とされる木綿問屋の長谷川邸(旧丹波屋)。屋根には富の象徴であるうだつがあがる。さらに歩くと、瓦ぶきの門がある。三井グループを起こした三井家の発祥地だ。江戸時代前期の1673年、江戸に越後屋を開き、松阪の本店から船で反物を運んで財をなした。今は屋敷はなく、幅6メートル、高さ4メートルの門も大正時代に再建されたものだ。
越後屋に代表される商人は松阪商人と呼ばれる。「最盛期、江戸には松阪出身者の店が約120軒あった」と郷土史家の大喜多甫文さん(71)はいう。「その気質は質素と倹約。地元産品に付加価値をつける才覚もあった」
商いの源は松阪木綿だ。地域で採れた綿と藍で作った。粋を重んじる江戸庶民のニーズをいち早く察知し、斬新な柄「松阪縞」を生み出した。
洗うごとに鮮やかになる発色と幾何学的な模様。その品質とデザイン性の高さが江戸の人々を魅了した。
その技術を今に伝えるのが松阪もめん手織りセンターだ。シャツやバッグ、反物などを販売しており、手織りも体験できる。センターの水谷陽子さんは「初心者向けのコース(2000円)もあり、お薦めです」と話す。
明治時代に入ると西洋文化が広まり、商人魂は今度は最高級の松阪牛を生み出した。
牛肉の需要が高まると、農耕用だった牛を食用として育て、徒歩で20日かけて東京まで運んだ。ここでもニーズを先読みする才覚が光る。肉付きのよい但馬の子牛を買い付け、麦や大豆かすなど栄養価の高い飼料で肥やし、昭和初期には「肉の芸術品」と呼ばれるまでに磨き上げた。現在は約8000頭が肥育されている。
その“芸術品”を、明治初期創業の「和田金」で霜降り肉の「寿き焼」としていただいた。1人前9240円。軟らかく、肉汁の甘い香りが口の中に広がった。のみ込むのがもったいないほどだ。
「めったに食べられませんね」と地元の人に話すと、隠れスポットを紹介された。駅周辺に点在するホルモン店の一つだ。七輪での網焼きが一皿700円。ホルモンも松阪牛だ。煙に包まれながら、よくかんで味わった。商人文化が町の至る所に浸透しているのを感じながら。