E会最新情報
番外編
平成27年7月4日 某社OBの方方と、宝塚市にて久々に、再会することができました。昔の思い出話に花が咲きました。
宝塚市 「がんこ」にて |
Nさん・Tさん・Hさん と K |
|
22年5月15日 近鉄南大阪線 道明寺駅に午前11時 集合、古市古墳群から石川河川公園を南下 喜志まで約 11キロの散策でした。
E会5月15日ウォーキング・コースガイド
1.日 時:平成22年5月15日(土)午前11時 2.集合場所:近鉄南大阪線道明寺駅
3.コ ース:
11:00 11:05〜11:15
11:20〜11:30
近鉄道明寺駅 ―0.4km5分 ― 道明寺天満宮 ― 0.4km5分 ― 道 明 寺―
11:50〜12:00 12:03〜12:35(昼食)
1.2km20分 ― 仲 津 姫 陵 ― 0.2km3分 ― 古 室 山 古 墳 ―
12:45〜12:55 13:20〜13:40
0.4km10分
― 応 神天皇陵 ― 1.5km25分 ― 誉 田 八幡宮― 1.0km20分
14:00 15:10
南河内サイクルライン(石川河川敷)
― 4.6km70分 ― 恵 楽
4.見 所
a.道明寺天満宮
道明寺天満宮の御本殿は本殿・幣殿・拝殿の構造からなる権現造りで建てられています。
創建年代は詳しくはわかりませんが、江戸時代初期に建てられ、中ごろに移築されて
いるのではないかと言われています。
桃山時代の部分も残っています。
屋根は檜皮葺きです。
現在その御屋根の檜皮葺き替え工事が終りました。
本殿前にはジャンボ絵馬が毎年登場します。
b.道明寺
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の地にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた伯母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別
れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
1573年(天正元年)には、畠山氏の守護代遊佐氏の兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。1872年(明治5年)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
c.仲津姫陵
15代 応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)の皇后で仁徳天皇の母の仲姫命(なかつひめのみこと)の陵とされている。作山古墳(岡山県総社市三須)と並んで全国第9位の巨大古墳である。
d.応神天皇陵
<第15代応神天皇(おうじん)天皇>
異称: 誉田別皇子(ほむたわけのおうじ:日本書紀)/大鞆和気命(おおともわけのみこと:古事記)
生没年: 仲哀天皇9年 〜 応神天皇41年 110歳(古事記では130歳)
在位期間 神功皇后摂政69+1年 〜 応神天皇41年
父: 仲哀天皇
第四子
母: 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
皇后: 品蛇真若王(ほむだまわかおう)の娘、仲姫(なかつひめ)
皇妃:
高城入姫(たかきのいりひめ:皇后の姉)、弟姫(おとひめ:皇后の妹)、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)他
皇子皇女: 荒田(あらた)皇女、大鷦鷯天皇(おおさぎきのすめらみこと:仁徳天皇)、根鳥皇女他
宮: 軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市大軽町)
陵墓: 恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ:大阪府羽曳野大字誉田)
e.誉田八幡宮
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格は府社。応神天皇を祀る。応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。
社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051年)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
南大門神宮寺として長野山護国寺があったが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
「以上の解説は 山本氏の案内原稿より 引用させていただきました。」
くろんど池をだずねて
さる5月27日京阪電車 交野線 河内森 から くろんど池 そして私市駅 約9キロのコースで ハイキングを 楽しみました。
久しぶりに野田さんも参加され 池田さん、中村さん、吉積さん、東さん、そして小林の6名、案内役の中村さんご苦労さんでした。
またいつも 懇親会部長を引き受けていただき 吉積さん有難うございます。
京都散策
久しぶりにハイキングに出かけました、あいにく参加者は、大型連休の初日という事もあり、中村氏、吉積氏と私小林
京都四条大橋に4月28日午前11時に集合、案内役予定の東氏が急用のため欠席となり 船長不在のまま出発
八坂神社・清水寺・から 鴨川を散策 JR京都駅まで 後は、恒例の懇談会となりました。
屋久島紀行
我々池田・中村・山本の3人は、5月30日午後6時頃大阪南港を出発、翌日の31日午後3時過ぎに屋久島宮之浦港に到着。
翌日の6月1日午前五時にホテルをバスで出発6時過ぎに登山口の「淀川登山口」に到着、
準備後6時40分くらいから登山開始(43名のツアー客をA〜Dの4班に分けて、それぞれにガイドがついて出発=我々3人はA班に所属し、一番にスタートしました。)
頂上には午前11時30分頃に到着(約5時間)、アップ・ダウンの連続する非常にタフなコースでした。
登山口帰着は午後4時15分で、往復の所要時間は約10時間でした。
下りは木の根が張りだしており、かつ雨が降っていることもあって登りと同様の所要時間を要することとなりました。
しかし、D班が登山口に帰ってきたのは我々よりも1時間半くらい遅い5時40分くらいでした。 全参加者43名、内女性はたったの12名で70%以上が男性でした。
添乗員が最近団塊世代がそろそろ定年になるので、そのような情勢が現れてきたのでしょうということを言っていました。
今まで私が行ったこのような登山ツアーは女性が5割以上を占めていましたので、時代の移り変わりを感じます。 (山本報告)
屋久島は、「定年退職後に行ってみたいところの常に上位に選ばれる所として、有名です」と、観光業界の人に聞きました。
大自然が残り、水と山・林と空気 鋭気を吸収されたことでしょう。しかし 約5時間の登山は相当な体力が要りますね。お疲れさんでした。(小林)
六甲山全山縦走第回目の報告
昨日(18年5月13日)六甲山全山縦走第4回目が雨の中行われ、中村さんが復帰されましたが、
吉積さんがドクターストップのため欠席一名欠け3名で行ってきました。(全体の参加者数も前回より減少し43名)
スタートは記念碑台からゴールは六甲山頂までの7kmアップダウンの少ないコースでしたので雨中とはいえ、精鋭ばかりでしたのでゴールには午前11時に到着。
このため序でに有馬温泉まで自力で下りようとなり、有馬温泉には12時過ぎに到着。
昼食後簡保の湯にゆったりと浸かって大阪には午後4時過ぎにはかえって来るという過去3回にはなかった超スピードで終了しました。 (山本)